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動力式茶摘採機のパイオニア松元機工


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  幼友達から茶摘みの機械化を持ちかけられた創業者の松元芳見は試行錯誤の末、進駐軍の使っていた草刈機にヒントを得てバッテリー式で回転刃を使った小型の茶摘み機を開発、特許をとる。
  旧海軍の戦闘機燃料タンク内に装備されていたDC(直流)小型モーターを利用して「バッテリー式回転刃型茶摘採機」の試行機が完成した。
 
このDC小型モーターを入手したのは戦後間もない昭和20年(1945年)秋。当時勤務していた鹿児島市の工場が旧海軍鹿児島海軍航空隊の飛行場にあった戦闘機の残がいの払い下げを受けたのがきっかけ。その工場ではアルミ鋳物材料として使用するため、工場の空き地に戦闘機の残がいを山積みしていた。
 
松元芳見はその中から、主翼の燃料タンク内に組み込まれた燃料ポンプのモーターを見つけ出した。燃料タンク内にはポンプとモーターが一体とDC小型モーターが数個あった。それは整流子モーターであった。
 
このDC小型モーターがあったおかげで「動力による茶摘機」の世界が広がったといえる。
  ちなみに、松元機工における特許取得第一号である。


  昭和36年(1961年)。乗用型の開発の話が県から舞い込む。国が農業構造改善事業のパイロット地域に知覧町を指定。一畝(うね)の長さが100メートルの大規模茶園整備の話が計画され、茶生産の機械化は急務となっていた。大手農機具メーカーを頼りにしたくても売れるか分からない機械の開発には消極的だった。
 


  県茶業試験場と松元機工の共同作業が始まった。前例のない大型機械に「やっぱり無理だ。」とあきらめかけたこともあった。だが、試行錯誤の末、ようやく1962(昭和37年)、畝をまたいで走行しながら作業ができる茶園トラクター1号機が、さらに昭和39年(1964年)には改良型の2号機が出来上がった。
 


  しかし、大きな欠点があった。茶園トラクターは車輪方式で、重量が一点に集中して地面を踏み固めてしまった。これをブルドーザーにみられる無限軌道方式(クローラー)にするなどの改良を加えた。
 


  「農家を重労働から解放し、高齢化が進んでも農業を続けられる。」そんな視点を大切にしている。新規開発に際しては、実際に農場に足を運び、作業の実態を知ることからはじめ試行錯誤を重ねる。「農家にとって機械購入は相当な出費。元を取ってもらうためにも、長持ちして故障しないものでなくては。」と開発を重ねて行った。

  刈刃部は、開発後まもなく完成。よく摘めるのだが摘んだ茶の葉を収葉する方法がなかなか出来ず苦労した。いろいろな方法の試作に失敗し「もともとお茶は、人の手で摘むものと神様から決められているのではないか?」とさえ思ったほどだった。この収葉が完成したのが、昭和39年なので約8年の歳月を要したこととなる。
 
  改良を重ね、約8年かけてできたのが重さ18kgほどで機械の両端を2人が手に持って歩きながら刈る高能率型可搬式茶摘採機である。現在の可搬式の原型となるタイプが完成。作業はこれまでの手バサミの10倍近くに向上した。この機械の開発により、鹿児島県の茶園面積は10年間(昭和41年から50年)に約1.6倍の伸びとなり、我が頴娃町(現南九州市頴娃町)では約2.7倍、となりの知覧町(現南九州市知覧町)では約2.1倍と飛躍的に伸びた。

  摘採機の開発に対して関心や夢を失わず、茶業者たちとの会話をなるだけ多く持ち茶摘採開発と茶園農家との対話に情熱を注いだ時期でもあった。
  昭和37年、茶園トラクター(鹿児島県茶園試験場 共同開発)試作を手がけ、様々な欠点を克服し、今の乗用型の原型となる摘採機は出来上がった。完成当初、農家は「あんなもので摘んだら問屋が買ってくれないのではないか。」と導入に二の足を踏んだ。まだお茶業界では「手摘み」信仰が根強く、機械には抵抗感が強かった。
  しかし、茶樹や農家との”対話”を繰り返して開発された機械の性能は確かなもので、農家の信頼を得ていった。この松元式乗用型茶摘採機MCT3型は発売当初、年に4〜5台程度しか売れなかったが、規模拡大の波にも乗って、総出荷台数481台になった。
  そして次々に摘採機・中刈機の試作を繰り返し、販売に至った。
  この時期は試作から販売へ、、また手バサミから機械に移り変わる時で、茶業界に旋風を巻き起こした時代でもあった。

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